針葉樹林の続く山道。
昼前に出発したのだけれど、既に影は随分と伸びている。
もう少ししたら、幕が落ちたようにあたりは闇に包まれることを知っていた。
隣のシートに腰掛けた東城は、落ち着いた表情で外を眺めている。
艶やかな黒髪や、長い睫毛の落す影なんかは学生時代から変わらないけれど、あの頃はさされなかった淡い色の口紅が可憐な面差しに、しっとりとした落ち着きを加えていた。
「真中君の見つけたロケ地って、こんな山中なの?」
映画のことを語る時、東城は普段のおっとりとした口調が心持早くなる。
凛、とした姿勢。真っ直ぐに向けられる瞳は強くて、揺るぎない。
意見が合わなくて、口論したことも何度かある。控えめな性格は変わっていないけれど、譲れないところはきっちり口にするようになった、ということなんだろう。昔の東城だったら、考えられない。
知り合った頃、十年前の東城はいつもどこか自信なさげで、おどおどしていた。正直、随分変わったなぁと思わされる。
それは勿論いい変化なのだけれど、少しだけ寂しく感じるのは多分俺の身勝手なんだろう。
「ああ、すぐそこだよ」
ハンドルを切って緩いカーヴを抜けると、いきなり視界が開けた。
「わ……あっ」
東城が息を呑んで、感嘆の声を上げる。
薄い青の空を、流れる雲が幾筋も分断している。
間から覗く黄金色の光が、ひときわ大きいログハウスに投げかけられていた。
黄色に赤、そして白い花があちこちに咲き乱れている。
その向こうには、緑の濃淡が絨毯のように広がっていた。
視界一面に広がる田畑、点在する家々は夕闇の影に彩られ、しっくりと景色に調和している。
木々に囲まれた小さな村、夕暮れの空と揺れる花、緑の大地、流れるせせらぎが涼やかな音を添えていた。
「すごい」
呟く東城を横目で眺めて、俺はログハウスの駐車場に車を寄せた。
ラストシーンは君と
「どうぞ、ゆっくりご覧になってください」
朴訥とした笑顔で、中年の女性がふすまを閉めた。
その音も気付かなかったように、俺の隣で東城はただ目を見開いている。
夕暮れの部屋は、障子を通して伝わる茜の光にちらちらと舞うホコリのためか、下見に来たときよりさらに古色蒼然としていた。
色の褪せた畳、ひっそりと漂う線香の匂い、黒ずんで光沢を帯びた箪笥。
それらの向こうに、それは静かに鎮座していた。
飴色の木肌、かけられた赤い糸はやわらかい曲線を描いて日に照らされていた。細く長い直線で構成されたどこか懐かしい機械。
「西洋風のも探したんだけど、こっちの方が機を織る少女のイメージかなって」
東城の小説に書かれていた姫のイメージは西洋風のお城やドレスだったけれど、主人公である戦士と少女の住む村は東洋の雰囲気も漂わせていた。
どこか鄙びた、暖かくて懐かしい空気。
その象徴である織り機は、中国やフランスの田舎町でも探したけれど、此処を見つけたときこれ以上の場所はないって思った。
「ここが宿に改装される前、家に代々伝わってきたものらしいんだ」
「うん……すごい、歴史があるんだね」
人差し指でそっと、木目を撫でる東城を眺めた。
その横顔に、半年前ボンヌフの橋の上で、石の手すりに同じ仕草をしたつかさが重なる。
『淳平君が感動した時、一番にそれを知らせたいのって、誰?』
つかさの……西野の言葉は、何時だって俺自身よりも俺を把握していた。
黄金色の夕日、金色の河、絵葉書みたいに綺麗な世界を背にして、西野はいっそ鮮やかな笑顔でそう尋ねた。
西野のことが、好きだった。
お互いの夢の為に一緒過ごすことは短かったけれど、二度目の告白をしてから過ごした時間、それは間違いなく俺が西野つかさに恋をしていた時間だといえる。
西野は俺のことを分かってくれた。
俺自身よりずっと、分かっていた。
だからこそ、彼女は俺の抱えているもうひとつの気持ちに俺より早く、気付いていた。
東城の小説を映画にしたくて、世界を巡った。
日本でバイトをして金を稼いで、一人きりで目にする世界はいつも驚きに満ちていて、小説のイメージと合致した景色に出会うと物凄くわくわくした。
西野と一緒に海外に訪れたのは、一度きり。
最初で最後の、フランス旅行。
フランスの古城を訪れる際に、パリで用事があるからと一緒に来てくれた西野。
初めての二人旅は、勿論楽しかった。
やはり現地の言葉を操れる西野がいることは、例えば田舎の英語なんて全然通じないような土地ではとても役に立ったし、何より恋人である女の子と一緒にいて、楽しくないはずはなかった。
西野の勧めるレストランで食事を取ったり、ふたりで少し贅沢したホテルに泊まったり、いわゆる観光地を巡ったり。
一人旅では決してしなかったことを、満喫した。
だけど。
王女のイメージにぴったりな城をカメラに収める時。
戦士が旅をする村そのもののような家屋敷を発見した時。
ボンヌフから眺めた美しすぎる夕焼けに、戦士が見た景色を重ねた時。
それらを一番に伝えたい相手は、見せたい相手は、たった一人だった。
――そして、それが全てだった。
『あたしね、ここに来たのパリの支店をパティシエールとして担当しないかってオファーがあるからなの。期間は、長ければ十年近くになると思う。遠距離恋愛にしても先が長すぎるよね? 恋人って絆だけじゃ、足らないと思う』
西野の言って欲しいことは、何となく分かっていた。
分かっていたけれど、言えなかった。
『支店の話は勿論魅力的だよ。でもね、淳平君とは一緒にいられなくなっちゃうのはイヤ。だから、話し合って決めたいって思ったの。これからの、二人を。恋人のままじゃなくて、あたしは先に進みたい。壊れないだけの絆が欲しい。淳平君はどうしたいか、はっきり言って』
西野のことが、好きだった。
恋をしていた。
だけど、言葉は出てこなかった。
たった一言。
西野の望む言葉を口にすれば、いい筈なのに。
『……ごめん』
決意が固まっていないとか、もう少し考える時間が欲しい、とかそんな理屈も浮かばなかった。
ただ唇を噛み締めた俺に、西野は身を翻すとセーヌ河に目を向けた。
細い肩と、華奢な背中。
何度も抱きしめた、恋人の後姿は儚く美しかった。
まるで、遠い女神みたいに。
『馬鹿だね、淳平君は』
恋をしていた。
ずっと恋をしていたけれど、西野と俺の間には恋しかなかった。
夢と恋の両立をするには、恋だけでは足りなかった。
西野の人生を引き受けるだけの地盤が俺にはなく。
俺自身の夢のために、立ち止まることも出来なかった。
茜と黄金の空と河。
振り返った西野の色素の薄い髪が、光に踊る。
映画のワンシーンのように鮮やかに、西野は綺麗過ぎて泣きたくなるような笑顔で、最後の問いを投げてきた。
『ね……淳平君。淳平君が感動した時、一番にそれを知らせたいのって、誰?』
そして、どれだけ距離を置いても繋がっているもう一人の存在が、自分の中でどれだけ大きいかを、初めて思い知らされた。
意識なんて、していなかった。
映画の同志だから、そう言い訳することだって出来た。
だけど、それだけじゃないことにも、本当はずっと前から気付いていた。
黄金色の光に照らされた東城。
その姿を綺麗だって思う。
撮りたい、という視点ではなくて、ふれたい、という視点で。
「東城、どうかな?」
「うん! 台詞の細部は直す必要あるだろうけれど、ここが、この織り機が私もいいと思う」
向けられる笑顔が、嬉しくて。
昔、告白してくれた気持ちは彼女にはもうないだろうと知っていても。
夢を追う同志、それが二人の絆で、それ以上なんて望むつもりはなかったのに。
「すごいね、また一歩夢に近づいたね!」
追いかける夢。
共に進み、喜んでくれる彼女。
その幸せそうな表情から目が離せなくて。
「東城……俺、やっぱり東城が喜んでくれるのが、一番嬉しい」
言葉が、勝手に溢れて。
「……好き、だ」
ずっと気付かない振りをしてきた本心が、零れ落ちていた。
ベッドに寝転がって、ため息をつく。
気持ちは沈み込んでこそいなかったけれど、自分の馬鹿さ加減には少々呆れた。もし鏡を見たなら、俺は苦笑いのようなものを浮かべていただろう。
「……失敗、したかな」
あの後、目を見開いて沈黙した東城に答えは望まないからと言ったけれど、やっぱり彼女は気にしているみたいだった。
夕食の間は、映画のことをぽつぽつと語りあったけれども、どこかぎこちなく、今までのような熱っぽさが失われていた。
まぁ、それも仕方ない話だ。
今までずっと性別を抜きにした付き合い、映画の、夢の同志だったのに、突然好きだと言われたら、動揺するだろう。たぶん、立場が逆だったら俺だって驚く。
明日の朝早々に、ここは発つことにしよう。
二人きりで長くいればいるだけ、何かがこじれてしまうかもしれない。
東城が恋愛感情を俺に持っていなくても、同志である今の関係まで失いたくなかった。
そういった意味では、告白なんてしなくても俺はよかったのだ。
今のままで、今の二人で充分幸せだったのだから。
なのにどうして、俺は言ってしまったんだろう?
なんだかどこかで聞いたような考え方だな、と思ってそれが高校生活最後の映画で、東城が口にしたアドリブだと思い出す。
「あ、そっか」
自分が何故本心を口にしたのか、少しだけ理解した。
今のままでも幸せで、今の関係を壊すのがきっと怖くて、ずっと一緒にやってきた。
だけど、本当は言いたかった。
――東城がいるから、夢を追うことが出来る。
東城のくれた気持ちを、心を、形にして伝えたかった。
――東城と一緒なら、何でも出来る気がする。
身体はそれを知っていた。
だから、自然と言葉が溢れたんだ。
――ずっと、ずっと。
長い間、西野といることで表に出なかった気持ち。
――東城のことが、好きだった。
それは、間違いようのない、真実。
東城が俺を好きかどうかは分からない。
嫌われてはいない自信はあるけれど、それはあくまで同志としての感情で。
むしろ、もう恋愛感情は失っていると考える方が自然だろう。
それでも、俺は東城のことが変わらず好きだった。
彼女が俺を想ってくれるから好きなんじゃない。
俺が、ただ東城を好きなんだ。
それは、口にしてもしなくても変わらない気持ち。
そう考えたら、不思議と穏やかな心境になった。
俺は目を閉じると、そのままゆっくりと眠りに落ちていった。
朝の光に、目が覚めた。
カーテンを閉めないままで、眠ってしまったのだと気付く。
枕もとの時計は、早朝といった方がいい時刻を表示している。
寝なおす気にもなれず、洗面と着替えを済ませると部屋を出た。
東城はまだ夢の中、だろうか。
今日は俺から朝の挨拶をして、東城が緊張しないように振舞わないとな。
想って欲しくないといえば嘘になるけれど、それよりも大事なのは俺が東城を好きだという気持ちだった。
東城はもう、充分すぎるほどのものをくれたのだから。
廊下を曲がって、一人歩く。自然と足が機織の部屋へと向かっていた。
もう一度、目にしておきたかった。
あの空気を味わって、脳裏に浮かんだ映像を現実に近づけたかった。
小説のラストシーン。
様々な困難を潜り抜けた戦士は、夜を徹して生まれ育った村へと帰還する。
遠く離れても、彼を支え続けてくれた志を同じくする少女の下へ。
静かな朝。
とん、ととん、という機を織る音だけが懐かしく耳に響く。
戦士がそっと開いた扉の向こう。
誰よりも会いたかった姿が、そこに……。
「え?」
襖の向こう側、誰もいないと思っていた部屋に、彼女がいた。
一瞬、想像の世界に紛れ込んだのかと思った。
機を織る少女、彼女が本当にそこにいるのかと、馬鹿な錯覚はしかし一瞬で消える。
そこにいたのは、東城だった。
中学の頃みたいに髪を編んで、驚いた顔をしてこちらを見ている。
「東城……」
「真中く、ん」
瞬きしている東城に、俺は笑ってみせた。
「早いな、びっくりしたよ」
「わ、私、もういちど機を見ておきたいなって……真中君も?」
「うん、イメージ作りしながらここまできたからさ、ほら、ラストシーンで戦士が故郷に帰ってくる場面あるだろ? そのシーン考えながら扉を開けたら、ちょうどイメージどおりの場所に東城が立っててさ。一瞬、東城が機を織る少女かと思ったよ」
「ふふっ、そうなんだ?」
「ちょっと、似ているところあるだろ? 東城の今の髪型とかさ、機を織る少女のイメージまんまだし。そうだ! 台詞言ってみてくれないかな? その方がイメージ湧きやすい気がするんだ」
「え? ええっ!?」
「あ、いや、イヤだったらいいんだけど!」
東城の素っ頓狂な声に、自分が何を要求したか気付いて俺は慌てて手をワイパーみたいに振った。
そうだ、東城は演じるのすっごく苦手だったじゃないか。
映画の話に熱中して、いつもの調子で話してしまった。
まぁ、東城も途中からいつもみたいに話してくれたから、それはよかったんだけど、ちょっと調子に乗りすぎたかもしれない。
第一、ラストシーンの少女の台詞って確か……。
だけど、俺の思惑とは裏腹に、東城は少しだけ俯いてから顔を上げて、真っ直ぐに俺を見た。
「ずっと、ずっとね、あなたの無事を祈ってた」
その言葉が、少女の台詞だと理解するまで半瞬の間があった。
「私、あなたと離れてね、初めて気付いたことがあるの」
心臓が、不意に跳ねた。
苦しい。
東城はあんまり綺麗で、真っ直ぐに見つめられたら、身動きひとつ取れない。
「あなたと一緒の時は気付かなかった。ううん、気付いたらダメだと思っていたのかもしれない。だって、あなたには使命があって、私はそれを応援こそすれ、邪魔なんて出来なかったから。この気持ちを認めてしまったら、あなたを送り出せなくなるって知っていたから」
東城は胸に手を当てて、すっと息を吸い込んだ。
「あなたが帰ってきてくれたから、ずっと言いたかったことがようやく言える」
蕾がほころぶように。
ふわりと、東城は微笑う。
目がひきつけられて、耳は東城の声だけを拾っていて、体中の細胞全部が東城に向けられていると感じていた。
「真中君が、好き」
驚きすぎて、呼吸するのを忘れた。
「え?」
今……俺の名前を、口にした?
「私、真中君に振られて、あの時はちゃんと諦めたんだよ。だから、昨日の言葉に正直戸惑った。だって、真中君とは映画のこと沢山話して、意見が合わなければケンカもして、私の嫌なところも知られちゃってるし、真中君が時々すごい頑固だったりそのくせヘンなところで優柔不断だったりすることも知ってるし、高校生の頃みたいな気持ちはもう自分の中にはないんだろうって思ってたから」
穏やかに、風に吹かれる花みたいに軽やかに、東城は微笑んでいる。
俺はといえば、東城の言葉を消化するのに精一杯で、口を挟む余裕もない。
「だけどね、考えてみたら、わかったの。私、真中君とこうして過ごす時間がすごく好き。映画を一緒に作るのも、意見を交わすのも、すごく楽しい。私が一番私らしくいられるのって、きっと、真中君が隣にいる時なの」
そうして、東城は一歩踏み出して俺に近寄った。
近づいた笑顔に魅せられる。
鼓動がうるさくて、血液が顔中に集まっている気がする。
それなりに恋愛の手順とか、雰囲気とか覚えたはずなのに、全部吹っ飛んだ。
まるで中学生に戻ったみたいに、初めて恋をしたみたいに、緊張していた。
「私もね、さっきこの部屋に真中君が入ってきた時、ずっと待っていた戦士みたいだって思った。それで、気付いたの……私、あなたが好き。真中君のことが、あの頃よりずっとずっと、好き」
頬を染めて、でも俺から一度も目を逸らさずに、東城は真っ直ぐに言葉をくれた。
俺は、ぎこちない動作で東城の手をとった。
気を抜けば、震えてしまいそうだった。
細い指先。
少し冷たいそれを暖めるように、そっと握る。
「……ありがとう。俺、東城とずっと一緒にやって行きたい。まだ頼りないところも沢山あるだろうし、迷うことも、意見が合わないところもあるだろうけれど、俺、東城となら何でも出来る気がするんだ。昔から、ずっと」
小さな手、この手が紡いだ物語が、俺と東城をここまで連れて来た。
吹けば消えてしまいそうな、笑われてばかりだった俺の夢を形にしてくれた。
「東城、好きだ」
俺は東城に近づくと、空いている手を彼女の背に添えた。
東城はそっと瞼を閉ざす。
俺は首を傾けると、小説のラストシーンそのままみたいな、甘酸っぱいキスをした。
このSSを書いてくれた、穂波さんのサイトになります。
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